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【3】障害関連(後編)

『そんなはずはない』

 クイズをひとつご紹介します。私が参加した人権研修で出されたものです。摂津市人権協会ホームページに掲載されていましたので、引用させていただきます。
 ※出典はこちらです → 摂津市人権協会ホームページ(「What's News」の「人権クイズ」にあります)

【問題】
 短い物語を6つに切ってバラバラにしたカードがあります。 元通りの意味が通じる文章に並べなおしてみましょう。
A .車いすの青年がいました。
B .道をたずねると、親切に教えてくれました。
C .どうやら旅行者のようですが、道に迷ったのか地図を広げ、辺りを見回しました。
D .近くの病院から家に帰る途中のようです。
E .大きなカバンを持ったアベックが歩いていました。
F .青年は、二人にとても感謝しました。

・頭の体操

【解答】A→C→E→D→B→F
A  車いすの青年がいました。
C  どうやら旅行者のようですが、道に迷ったのか地図を広げ、あたりを見回しました。
E  大きなカバンを持ったアベックが歩いていました。
D  近くの病院から家に帰る途中のようです。
B  道をたずねると、親切に教えてくれました。
F  青年は、二人にとても感謝しました。

【解説】
 「旅行しているのは車いすの青年だ」と気づいていただけましたか?私たちが無意識のうちに「旅行するのは健常者だ」という固定観念を持っていると、なかなかそれに気づくことができません。実はこの固定観念が、私たちの社会に大きな人権問題を引き起こしているのです。 もう一度私たちの心の中にある何気ない固定観念を、人権という観点から問い直して見ませんか?

 私はこのクイズを出されたときは、まだ障害やボランティアには関わっていませんでした。私は「人権の研修で出されたクイズ」であることから、「一般的な考えから離れないと正解できないだろう」と頭を捻りました。なんとか正解にたどり着いたものの、結構苦労しました。そして、「気づきのある良いクイズだな」と思いました。
 皆さんはいかがでしたか?すぐわかった人もいるでしょうし、難しいと思った人もいるでしょう。「旅行するのは健常者だ」と思い込んでいると、「車椅子で旅行」という発想は「そんなはずはない」と無意識に消されてしまいます。

 私はこのクイズに苦労しました。そして「常識や固定観念とはこういうことなのか」と気づきました。でも、いまだに「常識や固定観念」に囚われています。どうしても経験と環境によって、自分の観念をもってしまいます。人とはそういうものなのです。
 大切なのは、それを知っていることだと思います。自分もそういう傾向や可能性があることを知っておく。「あ、しまった。」と気づけること。そして自分の「しまった」を、率直に認められること。そんな気がします。私も気をつけたいと思います。

・トランク

『忘れ物は誰の責任?』

 数年前ですが、車椅子利用者の介助研修のときのことです。実習でディズニーランドの隣の「イクスピアリ」に行きました。グループに分かれて行動し、交代で車椅子介助をするものです。
 私は研修のスタッフとして、全体の動きを見ていました。駅に着いてグループ行動となり、私はあるグループに同行しました。男性の当事者が車椅子に乗り、研修生数人と私のグループです。
 しばらく歩き回った後、トイレに行くことになりました。男性は私だけだったので、トイレ介助は私がすることになりました。無事済ませて、集合場所の駅改札口へ行きました。
 帰りの切符を買う段になって、当事者の男性が気づきました。「バッグがない…」「きっとトイレだ」ということになり、私と2人で引き返しました。幸いバッグは見つかり、事なきを得ました。

 さて、バッグがないことに気づいたとき、その当事者の男性は、「すみません、私の責任です。」と、さかんにと繰り返していました。一方で私も、「いえいえ、バッグを棚に置いたのは私ですから。」と、謝りました。
 この研修は、当事者が講師となって行なうことを特徴としていました。この男性も、いわゆる練習台ではなく講師として参加していました。実習の移動中も、研修生に当事者の視点から、積極的に情報提供をしていました。日常生活の様子、サポートがほしいこと、楽しみなこと…。ですから、強い責任感をもって参加していたのだと思います。「私の責任です」という言葉は、そんな気持ちからだったのかもしれません。
 一方で私は、介助者としての責任を感じていました。トイレの中で、バッグを棚に置いたのは私です。棚から元に戻すのも、私の役目です。私がすべきことをしなかったのですから、私の責任だと思いました。
 このことは帰りの電車の中で、私の頭から離れませんでした。バッグを忘れたのは誰の責任だったのか?

 後で考えたのは、次のようなことです。
 私は、「バッグをここに置きますね」と本人に知らせた。彼は、「はい、わかりました」とそれを認識していた。私も彼も、バッグを忘れないように気をつけるべきだった。忘れた責任は、私と彼の両方にある。
 私の知らせ方は不十分で、彼の認識も弱かったような気がします。だから、やっばり私の方が悪いような感じがします。
 いずれにしても、彼の「私の責任です」は新鮮に感じました。誤解を恐れずに言えば、当事者は時に介助者に頼りすぎることもあります。逆に介助者がやりすぎることも。
 そんななかで彼の姿勢は、とても納得感があると思いました。彼は、「持ち物の管理をまず自分のこととした上で、介助者のサポートを受ける」というしっかりとした考えをもっていたのではないでしょうか。ですから彼の言葉は、前述の「講師としての責任感」からではなく、「自分と介助者の関係に対する彼の考え」から発せられたものだったのだと思います。

 この件について、彼とじっくり話したわけではありません。ですから、この記事は私の推測と感想です。ただ、「本人と介助者の関係」「障害者のサポート」「障害とは」、といったことを考えるキッカケをいただけました。私にとって、とてもよい経験だったと思います。
 それ以来、同じような場面で私は次のように言います。「あ、ここに置いときますね。」「忘れそうだなあ。」「忘れないように言ってくださいね。」

・トイレ

『「きらっといきる」は改革すべきか?』

 NHKの「きらっといきる」という番組がありました。障害のある人の前向きな生き方を、ドキュメントで紹介する番組です。2008年に「きらっと改革委員会」というシリーズが放映されました。そのことについて、若干触れさせていただきます。

 話の概要は次のとおりです。
①視聴者から手紙が届いた。「きらっといきる」は理想にすぎない。頑張っている障害者ばかり描くのはおかしい。
②このことを検討するシリーズ「~~改革委員会」を企画した。制作者、ゲストの当事者、視聴者で意見交換する番組。8月(発足編)、10月(反響編)、12月(反響編2)の3回放映。
③改革が必要とする考えのポイントは・・・、障害者は明るく頑張らないといけないと思われてしまう。 障害者福祉は現状で問題ないと誤解されてしまう。もっとありのままの姿や社会の問題点も描くべきだ。
④このままでよいとする考えのポイントは・・・、障害者の暗いイメージを変えるべきだ。明るく前向きな生き方から勇気をもらっている。番組を否定されると出演者も否定された感じる。

 私も、マスメディアで描かれる障害者のイメージは偏っていると感じていました。「障害を乗り越える障害者」「前向きに頑張る障害者」「勇気や元気を与えてくれる障害者」「愛される障害者」。
 番組に出演された皆さんは素晴らしい人達だと思います。しかし一方で、ステレオタイプに描かれることの弊害もあるようです。

 今回の番組を観た人それぞれに、様々な感じ方があると思います。立場によって、いろいろな見方があるのは当然のことです。私は私なりの感想をもちました。それを少し紹介させてください。
 まず、TV番組とは制作者側が描きたいようにつくられるものです。それは出演者が健常者でも障害者でも、同じことだと思います。健常者のドキュメンタリーでも、本人の意図に反して、現実以上に美しく描かれることはよくあります。その点は障害者特有のことではなく、TV番組共通の現象でしょう。この番組は、前向きに生きる姿を描いて勇気を与えるものです。その描き方自体は、基本的に問題ではないように感じます。
 問題なのは、障害者を取り上げるTV番組が少ないことです。本来は、障害者を取り巻くポジティブな面もネガティブな面も、様々な角度からもっと伝えられるべきではないでしょうか。頑張っている人、ごく普通に暮らす人、苦労している人。「きらっと」のような描き方の番組もあれば、社会の問題点を指摘し続ける番組も、新しい視点から提案していくような番組も、いろんな番組がたくさんあるべきです。
 全ての視聴者が満足する番組はありません。感じ方はそれぞれですから。TV局は様々な番組を提供し、視聴者は自分に合う番組を選択して観れるようになるのがベストだと思います。NHKは、「きらっと」を改革するのではなく、NHK全体の制作方針を改革すべきではないでしょうか。

 そして、障害者のことを描く番組を増やすだけでなく、一般の番組に当たり前のように障害者が出演するようになってほしいと思います。障害者のことを知ってもらう番組も必要ですが、障害者もひとりの人としてなんらかわらないことも、伝えるべきだと思います。障害者のイメージを「暗い→明るい」と変えるだけでなく、「違う→同じ」に変えることも大切のように感じます。
 今回の番組を観ていて、「障害者と健常者」を分けて議論する論調が気になりました。必要なのは「障害者の番組はどうあるべきか」と同時に、ちょっと大袈裟に言えば「TV放送において障害者のインクルージョンはどうしていくべきか」を考えていくことではないでしょうか。「もちろん違いもあるけれども、基本的には同じである」という認識に基づいて、番組を制作してほしいものです。
 とはいえ、このような議論が公開番組でなされ、たくさんの人がそれぞれに考えることは素晴らしいことだと思います。番組のチャレンジには敬意を表したいと思います。このような機会を通じて、番組だけでなくTV局や社会全体の意識が少しずつ変わっていくことを期待します。

・テレビ

『明日は我が身?』

 「明日は我が身と思って、ボランティアしています。」「明日は我が身と思って、ご支援をお願いします。」このような言葉を時々耳にします。聞くたびに、何か違うような気がしていました。

 ボランティアをしている人が、次のように言うことがあります。「私もいつ障害をもつことになるかもしれませんから」。このボランティアは、将来を見通すことができる人です。そして他人の立場に立つとができる人です。今は関係ないが、将来は自分もそうなるかもしれない。事故や加齢などにより、障害をもつことになる可能性がある。そのことを考えれば、今ボランティアをしていることは当然だ。このように考えられるのは、素晴らしいことだと思います。
 福祉講座の講師が、次のように言うことがあります。「皆さんも歳をとれば障害をもつことになるのですから。」この講師は、思いを伝えることができる人です。「障害を自分のこととして考えてほしい」ことを伝えるために、心に響く言葉を選んだのだと思います。障害は他人の問題ではなく、自分も障害をもつ可能性がある。そのことを考えれば、私もできることをしなければ。このように受講生に考えてもらうことは、とても大切です。

 しかし、何か違うような気がしていました。「自分も障害をもつかもしれないからサポートする」。では、「自分が障害をもつ可能性がないならサポートしなくてよい」のでしょうか?
 難病患者の支援を訴えるチラシに、次のように書いてあることがあります。「○○万人もの患者が苦しんでいます」「○○人にひとりの確率で発生します」「決して珍しい病気ではないのです」。このチラシは、読んだ人に重要な情報を伝えています。支援が必要であることを知らせることは大切です。身近に感じてもらうことで支援に繋がることは多いでしょう。
 しかし、何か違うような気がしていました。「身近な人が罹患するかもしれないからサポートする」。では、「発生率が極めて低い病気の患者さんはサポートしなくてよい」のでしょうか?

 誤解しないでいただきたいと思います。「明日は我が身」と思って、意欲的に活動に取り組んでいるボランティアを、間違っているとは思いません。「明日は我が身」ですよと言って、受講生に自分のこととして考えてもらおうとしている講師を、間違っているとは思いません。「明日は我が身」であることを知らせながら、支援を呼びかけているチラシを、間違っているとは思いません。それぞれ素晴らしいことですし、必要なことだと思います。
 でも、やはり何か違うような気がするのです。解決のポイントは、別のところにあるのではないか。問題の本質に思いを至らせると、違う発想が必要なのではないか。そんな気がしてなりません。
 「理屈で矛盾があって納得がいかない」というのではありません。「考え方の視点」「物事の切り口」「精神的な立場」?そんな類のことです。

 つまり、こういうことです。
 「自分もなるかもしれないから」ではなく「ただ、そこにその人がいるから」
 「たくさんいるか、めったにいないか」ではなく「ただ、そこにその人がいるから」
 「その人がとても大変か少し大変か」ではなく「ただ、その人がそのサポートを必要としているから」
 「自分がそうだから」ではなく、「その人がそうだから」
 「ただ、そこにその人がいて、そのサポートを必要としているから」だから、サポートする、サポートが必要、サポートしましょう。そういう「考え方の視点」「物事の切り口」「精神的な立場」。こちらの方が、私にはスッと落ちてきます。

 ここに書いたことは、「私にはスッと落ちる」考え方です。皆さんは違うかもしれません。感じ方、考え方はそれぞれですので。気分を害した方がいらしたらお許しください。

・ガラス食器

『エレベーターのボタンを押すように』

 障害のある人をサポートするには、「自然に」サポートすることが大切です。言うのは簡単ですが、どうしたら「自然に」できるのでしょうか。先日、このことをイメージするための、よい言葉を知りました。

 障害のある人とあまりふれあったことがない人や、ボランティア初心者の人は、初めはどうしても構えてしまいます。「役に立ちたい」「何かしなきゃ」と思うことは悪くありません。でも一歩間違うと、サポートされる側からすると「おせっかい」や「迷惑」になってしまいます。力を抜いて「自然に」サポートすることが大切です。
 では、どうしたら「自然に」サポートできるのでしょうか。それは、「必要なお手伝いのうち、自分にできることをする」ということです。このことに、一般の人と障害のある人で違いはありません。「必要なお手伝い」の中身が少し違うだけです。

 エレベーターに乗った時を想像してみてください。あなたはエレベーターに乗り込んで、行き先階ボタンを押したところです。そこへ後から、エレベーターに乗ろうとする人がこちらに向かって歩いてきます。あなたはどうしますか?「開」のボタンを押して、その人が乗るのを待ちますよね。
 これだと思うのです。あなたは「自然に」ボタンを押したはずです。そこには「役に立ちたい」「何かしなきゃ」という気負いはありません。「ふと気づいたことをした。それだけ。」なのだと思います。そして、サポートされた側も「ありがとう」の一言でいい。そんなことなのだと思います。

 もちろん、もっと負荷の高いサポートが必要な場面もあります。支援者としてのサポートは、また違う側面があると思います。しかし、街の人が障害のある人を「地域の隣人」としてサポートするには、この「自然なサポート」がキーになります。そのために、街の人に「自然にサポートすること」をイメージしてもらうことは、大変重要です。
 この言葉は、昨年秋にお会いした人から聞いたものです。わかりやすくてイメージしやすい言葉だなぁ、と思って紹介させていただきました。

 障害のある人を街で見かけたら、思い出してください。「エレベーターのボタンを押すように」

・エレベーター

『障害は異文化?』

 「障害は異文化だ」と考えていた時期があります。今では、大きな見当違いだったと思っています。でも、ある意味では正しかったようにも思えます。

 障害のある人と関わるボランティアを、始めた頃のことです。ボランティアの活動をするたびに、なんとも言えない満足感かありました。この満足感の理由がわからなくて、困りました。私はなぜ楽しいのか? 私はなぜ満足しているのか?
 世のため、人のためになることをしているから?正しいことをしているから?弱い立場の人を助けているから?・・・どれも違います。いろいろ考えても、納得できる理由がありません。
 そこでこう考えました。「障害は異文化」なのだと。

 障害は、自分がこれまで触れてきたものとは違った世界である。一方で自分には、異文化を楽しむ傾向がある。海外で異なる文化や生活に触れると、とても興味深く感じる。だから障害のある人との関わりを楽しいと感じるのだ。
 今考えれば、「障害を自分とは違う世界のこと」と決めつけたうえでの考えです。その意味では大きな見当違いだったと思います。今は、「ひとにはそれぞれ共通点と相違点があり、障害もそのひとつにすぎない」と考えています。違いもあるけど、基本的には同じひとであると。しかし当時は、「障害のある人は自分とは違う人」「自分はその違いを楽しめる人なのだ」「だから楽しくて満足感があるのだ」と考えていました。
 そうでも考えないと、自分でも説明がつかなかったのです。ボランティアや障害のある人との関わりにおける満足感が。その後、「満足感は説明できなくてもよいのだ」と思うようになりました。
 「なぜボランティアをするのですか?」とよく聞かれます。私は「そこに山があるからです」と答えることがあります。最近は、「私がここにいるからです」と答えるべきだと気づきました。

 さて、冒頭に「ある意味では正しかった」と書きました。当時の考えは、次の点で正しかったと思います。
 現実に、一般の人にとって障害は違う世界であること。その意味では、「障害は異文化」であること。違う世界を受け入れるには、ある素養が必要であること。その意味では、異文化を楽しむ傾向は役に立つこと。共通点と相違点をそのまま理解するには、まず違いを受け入れることが必要ですから。
 海外に行って、日本と環境が違うと感じたときの反応は様々です。「日本と違う」と困ったように言う人、「日本と違う」と嬉しそうに言う人。

 これまで関わりのなかった世界に触れる→「自分と違う」と感じて排除するor遠ざかる→永遠に自分と違う世界とは交わらない
 これまで関わりのなかった世界に触れる→「自分と違う」と感じて関心をもち交わっていく→相違点と同時に共通点を感じていく→ありのままに理解する

 「ふうん、同じなんだ」「へえ、違うんだ」。ありのままに理解したいものです。

異文化

『大好き!「私の妹」』

 「大好き!」は、市民が制作した知的障害者が主人公の漫画です。知的障害のある人の、毎日のさりげない暮らしぶりを描いたものです。
 コラムの最後に、「大好き!」の漫画をひとつご紹介します。

「私の妹」

大好き1小
大好き2小

 いかがですか?読んだ後、温かい気持ちになりませんでしたか?

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◆目次へ

※この記事の元記事(ブログ『ボランティア雑記帳』)
 そんなはずはない
 忘れ物は誰の責任?
 「きらっといきる」は改革すべきか?
 明日は我が身?
 エレベーターのボタンを押すように
 障害は異文化?
 大好き!「私の妹」
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