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【2】障害関連(前編)

『明りのなくなった街』

 野沢和弘さんの著書「条例のある街」の一節、「明かりのなくなった街」の話をします。高梨憲司さんのお話を、野沢さんが紹介したものです。
 千葉県では2006年に、「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」が成立しました。その成立に中心的役割を果たした「千葉県障害者差別をなくすための研究会」。野沢さんはその座長、高梨さんは副座長でした。「明りのなくなった街」は、目の不自由な高梨さんが研究会のタウンミーティングで披露した話だそうです。一部抜粋で引用させていただきます。

*** 以下、「条例のある街」より引用 ***

 明かりのなくなった街

 この町で目の見えない人が多くなったらどうなるか。みなさん考えてみてください。私はこの町の市長選挙に立候補する。そしたら目が見えない人が多いので、私はたぶん当選するでしょう。そのとき、私は選挙公約をこうします。この町の財政も厳しいし、地球の環境にも配慮しなければいけないので、街の灯りをすべて撤去する。そうしたら、目の見える人たちがあわてて飛んでくるでしょう。「なんて公約をするんだ。夜危なくて通りを歩けやしないじゃないか」と。市長になった私はこう言います。「あなたたちの気持ちはわかるけれども、一部の人たちの意見ばかりを聞くわけにはいきません。少しは一般市民のことも考えてください」。そう、視覚障害者である私たち一般市民にとっては、灯りなんてなんの必要もない。地球環境がこんな危機に瀕しているのに、なんで目の見える人はわかってくれないのだろう。

*** 以上、引用終わり ***

 本をお持ちでない方は、是非「条例のある街」をお買い求めください。他にも「輝く拍手の波」など、たくさん気づきがあるお勧めの一冊です。

 車いす用のトイレを増やしてほしいという要望に、「財政が厳しいのにそんな余裕はない」と言っていませんか?それは多数派の論理です。あなたは自分が少数派になったら我慢できますか?「私は少数派なのだから、わがままを言ってはいけないのだ」と納得しますか?
 私はこの一節を読んだとき、目から鱗が落ちました。マイノリティ(少数派)とは何か、多数派の論理とは何か。頭では理解していたことが、「ああ、こういうことだったのか」と腑に落ちた気がしました。その後、野沢さんの講演でこの話を聞いたとき、既に本で読んで知ってる話なのに、鳥肌が立ちました。

 本を読んでから4年が経過し、東日本大震災が起き、全国で節電が行われました。高梨さんが市長だったら、どうなっただろうと思ってしまいました。
 国家存亡の危機に直面した今、限られた電力は優先順位をつけて利用すべきである。昼夜を問わず市内全ての照明と看板を消すこと。街灯や公共機関だけでなく自宅の照明も対象である。TVの使用は禁止し、ラジオのみ許可する。これらによって、当面必要な電力は十分確保されるため、それ以外の社会生活や経済活動は、通常通り行う。・・・こんな感じでしょうか。
 少数派である「見える人」に少々の不便を我慢してもらえば、エレベーターやエスカレーターも止めなくてすみますし、公共交通機関も通常通り運行できます。

 もちろん、この話は極端な例え話であり、反論を始めたらキリがありません。そもそも高梨さんは、逆説的な話をして気づきを与えようとしたのであって、実際に市長になったら、少数派である「見える人」にも配慮した政策を実行するに違いありません。いつもと違った切り口で物事を見てみる。そのためのキッカケとして、考えていただければと思います。

 震災直後、あらゆるところで照明が落とされていました。私個人としては、もっと落としていいと思いますし、これまでが明るすぎたと思いました。でも、弱視の人や視力が衰えた高齢者にとっては、駅の暗い階段歩くのは危険でしょう。エスカレーターも同様で、節電のために少数派である弱者が不便を強いられていたように思います。
 節電する場合の優先順位については、ずっと気になっていました。「節電への協力を求めるTV局こそ輪番停電すべきだ」という意見もあると聞きました。そんなことを考えながら、野沢さんの本を読み返し、「節電の優先順位にみる多数派の論理」について、改めて考えてみました。
 様々な視点と意見が、ありうるテーマだと思います。あなたはどう思いますか?



『大手町は異様な風景』

 東京の大手町の風景は異様です。同じような人が、たくさん歩いています。世の中には、もっと多様な人がたくさんいるのに。
 彼らは毎日ほとんどの時間を、自分と似た人達と過ごしています。通勤電車、会社、昼休み、飲み会、ゴルフ…。世の中には、もっと多様な人がたくさんいるのに。
 そして彼らは、「自分は同じような人と、ほとんどの時間を過ごしている」ということに気がついていません。世の中には、もっと多様な人がたくさんいることを知らない、または忘れています。これが「普通」だと思って、毎日を過ごしています。

 私も、同じような人と過ごす時間は長いです。そんなに多様な人のことを、理解しているわけではありません。日本の常識や小さなことに拘ってしまうことも多いです。
 そんな私ですが、休職の前後にとまどいを感じたことがあります。私は2年間休職して、ボランティアばかりの生活をしました。最初の頃、街に障害のある人や高齢者が多いことに驚きました。街を走る多数の施設送迎車、公園を散歩する高齢者…。平日の住宅街を見慣れていなかったのでしょう。毎日会う人々が、これまでと全く違うのにとまどいました。
 そして、2年が経って復職したときも驚きました。通勤電車、会社近くの街を歩く人々、事務所の従業員たち…。休職中にはほとんど会わなかった人々が溢れている。そして彼らは、とても似通っている。休職に入るときと、逆のとまどいがありました。
 海外で活動したときも、もちろんとまどいはありました。言葉、文化、食べ物、気候…。でも、それは予想していたことです。国内で、しかも自分の住んでいる地域で、あるいは毎日働いていた会社で、こんなにとまどうとは思っていませんでした。

 毎日、共通点の多い人と過ごす時間が長いと、世の中にはもっと多様な人がたくさんいることを忘れてしまいます。世の中には、「障害のある人とない人」だけでなく、様々な相違点をもったひとがたくさんいるわけです。ときどき立ち止まって、「もっといろんなひとがいるんだった」と思い出すことも大切なのでしょうね。自戒の念も含めて、改めてそう思います。

・大手町

『線を引くな』

 ある障害者施設の職員さんから聴いた話を紹介します。もう7年前に聞いたのですが、いまだに心に残っています。今の私の考えに、大きな影響を与えた話です。(細かい部分は、少し違っているかもしれません。ご容赦ください。)

 以下、その職員さんを「Kさん」とさせていただきます。
 Kさんが、まだ研修中のときのことです。知的障害のある人とどう関わったらよいか、まだ迷いがありました。ある日先輩職員さんから、「Kさんは線を引いている」と言われました。「自分と利用者との間に線を引いている」と。「自分と障害のある人を別の人として分けて接している。」という意味です。
 それ以来Kさんは、「障害のある人も自分と同じひとりの人である」と考えて、利用者さんと接するように心がけました。しかしその後も毎日、Kさんは先輩から言われ続けました。「まだ線を引いている」と。
 Kさんは悩みました。頭ではわかっている。でも実際に関わる場面になると、どうすればよいのかわからない。「線をひかない」とは、いったいどういうことなのか・・・。そしてまた先輩から言われます。「まだ線を引いている」
 でもある日、わかったそうです。「そういうことか」そしてそれ以来、全く迷いがなくなったそうです。
 
 私がこの話を聞いたのは、休職してまもなくの頃です。それまでも、障害のある人と関わった経験はありました。でも、年に何回か単発のボランティアをしただけでした。ですから、まだ「障害のある人は助けてあげるべき人」と漠然と考えていたかもしれません。
 そんなときに聞いたこの話は、とてもインパクトがありました。Kさんが話してくれた場所も、鮮明に覚えています。その後もいろいろな場面で、この話を思い出しました。

 Kさんは、「そういうことかとわかった」と話してくれました。しかし「どういうことだとわかったのか」は教えてくれませんでした。でも、なんとなくわかりました。そして、その後だんだんわかっていきました。私なりに。
 私はこう考えるようになりました。世の中にはいろんな人がいる。私たちは互いに共通点と相違点がある。それだけ。
 Kさんは先輩から、福祉施設の職員としての心構えとして、教わったのでしょう。Kさんはそれを受け止めて、自分の考えとして消化しました。そしてそれを、地域の人として障害のある人と関わろうとし始めていた私に、ヒントとして語ってくださったのだと思います。

・定規

『義理では買わない(障害者の作品・商品)』

 障害のある人がつくった作品や商品。いろんなところで販売されています。福祉ショップ、作業所、バザー、文化祭…。私も気に入ったものがあると、ときどき購入します。しかし、義理では買いません。

 本来は障害者雇用が促進されて障害のある人の活躍の場が広がったり、自治体や企業が積極的に作業所等の製品を調達するべきでしょう。そして、作業所等の商品供給側も品質向上や効率化の努力が必要です。
 しかし現状では、作業所等でつくられた商品や作品の販路は限られています。なかなか思うように販売できず、工賃や給与は低く抑えられています。ですから、障害のある人が関わったものを買うことは、障害のある人の活躍の場を確保して広げていくために、役立つでしょう。
 販売する側もなんとか売上を増やしたいと思い、工夫しています。イベントで出店した売店などでは、さかんに「買ってください」と声を掛けます。売る側が一生懸命努力することは当然ですし、こちらも「頑張ってるなあ」と応援したい気持ちになります。

 販売している人が、知っている当事者やご家族・職員さんだったりすると、「買ってってくださいよ」と頼まれることがあります。頼まれると断りにくくて、義理で買う人も多いのではないでしょうか。お店を出している人同士が相手の店を訪問して、互いの商品を購入しあうこともあるでしょう。「さっき買ってくれたから、お返しに購入」という場面も見かけます。
 私は、「何かいいものはあるかな」とお店を見て回り、気に入ったものがあれば買います。しかし、特別ほしいものがなければ、買いません。たとえ、よく知っている当事者の人から強く頼まれても、「う~ん、今は欲しいものないからなあ、ごめんなさい」と言って断ります。いわゆる「義理」で買うことはしません。

 理由は二つあります。
一つ目は、失礼だと思うからです。欲しくない物を買うと、使い道に困ったり食べる気にならなかったりして、最悪の場合は捨てることになるかもしれません。「気に入らないのに仕方なく買う」のは、作った人や関わった人に失礼だと思うのです。あるいは、「かわいそうだから買う」という人がいるとすれば、それもやはり失礼なことだと思います。
 二つ目の理由は、内部への販売は、本来の拡売を阻害する可能性があるからです。イベント等で一日の売上を計算して「○○円売れた」と言っても、実は出店者同士の購入がかなりの割合を占めていたりしないでしょうか。内部への販売は、問題点とすべきことを見えにくくします。関係者に購入を依頼するよりも、品質を向上し、効率化を実現して、販促を強化する方に、力を注ぎたいものです。

 「それができれば世話はない」「外部への販売なんて簡単に増やせない」「助け合いも大切だ」…そんなご意見もあると思います。
 ご本人や関係者は、一生懸命頑張っているのはわかります。しかし、だからこそ失礼なことはしたくないし、本来の売上向上を期待したい。私はそんな気持ちで、いつも商品や作品を見ています。

 もちろん私も、全然買わないわけではありません。実際には、結構欲しいものを見つけて、そこそこ買ってます。不愉快な気持ちになった方がいらしたら、申し訳ありません。そういう感じ方もあるということで、お許しください。

<バザーで買ったカップ(まん中の青)>
義理では買わない

『言葉はなくても…』

 「言葉がなくても、意思や感情はあるんです」「言葉がないからといって、意思や感情がないと思わないでください。」・・・ある研修で聞いた言葉です。

 研修のプログラムの中に、私たちが「おせんべ」と呼んでいるコーナーがあります。受講者がペアになり、障害のある人役と介助する人役になって、おせんべを食べるのを介助してみるというものです。おせんべを食べたいか、どのように食べたいか、どうしてほしいかなど、相手の意思を確認しながら介助します。「介助の基本は、相手の意思を確認すること」「コミュニケーションが最も重要」ということを、体験を通じて理解してもらうことが目的です。
 事前にスタッフで打ち合わせたとき、障害のの内容をどう設定するかで、意見が分かれました。昨年は「手が不自由だが言葉のコミュニケーションは可能」という設定で行いました。初心者には取り組みやすいし、伝えるポイントが絞れるからです。今回も、この設定でやろうという意見が大勢でした。
 しかし、一人だけ強く反対するスタッフがいました。その人は「言葉もないと設定すべきだ」と主張しました。その理由は次の通りです。
・言葉で意思確認する実習だと、言葉でコミュニケーションをとることに注目してしまう。
・すると、言葉がない人は意思や感情がないと思われてしまう。
・言葉はなくても、意思や感情はある。言葉以外でも、それを確認する方法はある。
・それを受講者にわかってほしい。

 スタッフ全員、この話はよく理解できました。私は、このスタッフが昨年も「言葉もない設定」を望んでいたことを思い出しました。そこで私たちは相談の結果、次のように実習を行うことにしました。
・実習の目的である「意思確認とコミュニケーションの重要性を伝える」を果たすため、設定は「手が不自由だが、言葉のコミュニケーションは可能」とする。
・「言葉はなくても意思や感情はある」ことはとても大切なことなので、スタッフが実習の直後に受講者に説明する。

 さて、「おせんべ」の実習終了後、先ほどのスタッフは次のように話しました。

*** 以下、スタッフの話 ***

 今、皆さんは相手の気持ちを確認するのに言葉を使っていましたね。でも、もし相手が言葉のコミュニケーションが苦手な人だったらどうでしょうか。相手の気持ちを知るのは不可能でしょうか。
 私の息子は言葉がありません。でも、話しかけられることはだいたいわかるようです。自分の気持ちも、言葉以外で伝えようとします。しかし、言葉がないということで、コミュニケーションを諦められてしまうことがあります。

 ヘルパーさんと出掛けたとき、「今日は水分を取ってくれませんでした」と言われたことがあります。よく聞いてみると、水分補給は大切だと思ったヘルパーさんは、吸収しやすいスポーツ飲料を飲ませようとしたが飲んでくれなかった、とのことでした。息子はスポーツ飲料は好きではありません。「それで飲まなかったのではないか」と伝えると、ヘルパーさんは「では何が好きなのですか?」と私に尋ねます。「りんごジュースは好きですね」と答えると、ヘルパーさんは次回それを与えますが、今度も飲みません。
その日は違うものを飲みたかったのかもしれません。誰でも飲みたいものは、日によって違いますよね。

 どうして親に好きなものを聞いて、本人に直接聞いてくれないのでしょうか。例えば、コンビニに行って本人の前に飲み物をたくさん置いてみればいいのです。飲みたいものを触るなど、何らかの方法で意思を示すかもしれません。
 食べ物も、好物を親に聞いて勝手に注文しても食べません。和食・中華・洋食、お店を何軒か回って反応を見ればいいのです。入りたいお店の前で、笑顔になったり大きく身体を動かしたりすると思います。店が決まったら、サンプルやメニューを見せてなにが食べたいか訪ねて本人の様子をよく見ます。息子は沖縄料理が好きなのですが、「ゴーヤなんて苦いものは嫌いに違いない」なんて勝手に決めつけないでください。

 言葉がなくても、意思や感情はあるんです。言葉がないからといって、意思や感情がないと思わないでください。言葉がないということで、コミュニケーションを諦めないでください。いろいろ工夫して、本人の気持ちに少しでも近いサポートをするように心がけてください。

*** 以上、スタッフの話 終わり ***

 受講者の皆さんは、じっと耳を傾けていました。感想やアンケートには、次のような言葉がありました。「言葉が不自由であっても本人の意思はある。コミュニケーションを図り、相手の意思を尊重することが必要だとわかった。」
 スタッフの思いは、伝わったようです。

<おせんべとお茶>
言葉はなくても

『ニュートラルな視線で』

 「ニュートラルな視線」を大切にしたいと思っています。私は「ただの人」ですので。福祉関係者ではありません。家族に障害のある人がいるわけではありません。

 障害のある人についての理解を広げたいと思っています。でも、障害のある人の立場で主張するのではなく、ニュートラルな立場で思いを伝えていきたい。
 専門家でも、活動家でもない。ごく普通の地域の一般人。直接の利害のないニュートラルな立場と視線。

 障害のある人の権利擁護や本人・家族の活動を否定するつもりは全くありません。障害のある人に対する社会の理解は浅く、制度も不十分です。権利侵害は多数発生し、差別もなくなっていません。現実に不当な扱いを受けている人々やその支援者が、主張や運動を通じて状況の改善を勝ち取っていくことは当然であり、とても重要なことだと思います。
 それと同時に、社会の理解を得るには「共感」も重要です。当事者や支援者が熱く自ら主張していくと同時に、客観的な立場から冷静に温かく働きかけることで「共感」を得ていく。そんなことも、社会を変えていくという意味では、効果的なのではないでしょうか。

 一般の人の中には、「障害のある人の視点からの主張」に対して拒否反応を示す人もいるでしょう。自分が責められているように感じて自己防衛に入る人や、逆に反撃に出る人もいるかもしれません。「障害のある人 と 一般の人」の構図での主張は、マイナスに作用する場合もありえます。
 「障害のある人」から「一般の人」に向けて視線を送る、あるいはその逆方向に視線を送るのではなく、社会全体を俯瞰して「皆それぞれ」「ひとりひとり」と認識する。そんなニュートラルな視線を、大切にしていきたいと考えています。

 世の中にはいろんな人がいる。誰かが普通で、誰かが特別なのではない。お互いに共通点と相違点がある。それだけ。
 言葉・文化・民族・宗教・食習慣・年齢・性別・家族構成・出身地・職業・体型・得意なこと・苦手なこと・好きなこと・嫌いなこと・趣味・・・。ここは違うけど、ここは同じ。違ったり同じだったり。
 でも、いきなりそれを伝えようとしても、わかりにくいかもしれません。ですから、「障害のある人」という角度で一度考えてみて、その上で全体を俯瞰してみる。そして、最終的には「皆それぞれ」ということを理解してもらい、その中で「障害のある人に必要な支援を自然にする」。そんな人を増やす活動をしていきたいと思っています。

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※この記事の元記事(ブログ『ボランティア雑記帳』)
 明りのなくなった街
 大手町は異様な風景
 線を引くな
 義理では買わない(障害者の作品・商品)
 言葉はなくても…
 フラットな視線で
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