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第10章 コラム

 最終章は、ボランティアや障害について思いを巡らせて書いたコラムのコーナーです。私の勝手な思いですので、異論があるかもしれません。さまざまな考え方がある分野ですから、むしろ異論があって当然だと思います。「このひとはそう考えてるんだな」と

思って読んでいただけると幸いです。読んで少しでも気づきがあったら、私としてはとても嬉しいです。

【1】ボランティア関連

『「ありがとう」でいきましょう』

 ボランティアには、「ありがとう」と言うことにしてはいかがでしょうか。「ボランティアに感謝してほしい」という意味ではありません。「すみません」より、「ありがとう」のほうがいいかな、という意味です。

 ボランティアをしたときに、ご本人やご家族から「すみません」「ごめんなさい」と言われることがあります。「お忙しいのに・・・」「ご迷惑かけて・・・」「お礼もできなくて・・・」など、いろいろな思いがあってのことと思います。それは自然な気持ち

でしょうし、決していやな気分にはなりません。
 でも、ボランティアは「両方OK」の場合に、成り立つものだと思います。つまり、ボランティア側も望んでしているわけです。ですから、「すみません」「ごめんなさい」と言われると、やはり違和感があります。「好きでやってるのになぁ・・・」と。実際

、ご本人・ご家族がボランティアを受け入れてくれなければ、ボランティアをできないわけですから。
 *ここでは、私のボランティア活動を想定して書いています。「両方OK」でない形のボランティアもあります。

 一方で、「ありがとう」と言うのは、過分なことをしてもらった場合だけではないでしょう。ちょっとしたこと、当然のことをされた場合も、「ありがとう」と言うことは多いと思います。レストランで水を注いでもらったとき、タクシーを降りるとき、友人か

らのメールに返信するとき、家族が醤油をとってくれたとき。
 欧米では、"Thank You."を自然に言うことが多いようです。ここは日本ですし、別に欧米が優れていると言いたいわけではありません。でも、普通のことをして"Thank you."と言われると、温かい気持ちになります。逆に、自分から"Thank you."と言ったときも

、温かい気持ちになります。
 窓口やお店の人が無愛想なのは「ありがとう」と言われないからだ、という話を聞いたことがあります。だから、みんなもっと「ありがとう」と言おう、というわけです。なるほど「ありがとう」とときどき言われていれば、自分も自然と愛想がよくなりそうで

す。

 少し話が逸れてしまいました。「両方OK」であれば、ご本人・ご家族もボランティアも、特別深く感謝する必要はないでしょう。でも、「両方OK」はお互いに相手が「OK」であればこそなので、そういう気持ちで「ありがとう」と言えたら一番かな、と思

います。お互いに「ありがとう。またね。」と言って、お互いに温かい気持ちになりたいものです。ということで、「ありがとう」でいきましょう。

・クレイアート1

『お断りすること』

 お誘いをお断りすることがあります。
 「こういう活動をしているんですけど、来ていただけませんか?」 → 「せっかくですけど、これ以上活動を広げられないので。」
 「来週、一緒に出掛けてくれませんか?」 → 「ごめんなさい、その日は予定があるので。」
 「3人でカラオケに行くんだけど、一緒に行かない?」 → 「ごめん、カラオケちょっと苦手。それより野球行こうよ。」

 できれば私も、いろんな活動に参加してみたいです。新しい出会いや発見もあるでしょうし。せっかく声をかけていただいたのに、お断りするのは申し訳ない。
 できれば私も、久しぶりにあなたと会いたいです。いろいろ聞きたい事や話したいことがあります。私を頼って連絡してくれたのに、失望しただろうなぁ。
 できれば私も、みんなとワイワイやりたいです。自分は歌わなくても、楽しそうなみんなを見てると幸せです。誘ったら来てくれると思ったのに、がっかりしただろうなぁ。

 でも、私の時間は限られている。やりたいことは全部できません。仕事、家族との時間、自分の時間。
 安請け合いは、かえって不誠実。後でドタキャンする方が失礼ですよね。無理しておつきあいするのは、もっと失礼。無理してるのって伝わりますから。きちんとお断りするのも大切、そう思って勇気と誠意をもってお断りします。
 後で落ち込むこともあります。もっとああ言えばよかった、失礼な断り方しちゃったかなあ、行こうと思えば行けたかも。
 仕方ないですね。人と人ですから。率直に自然体でおつきあいするように、心がけるしかありません。声をかけていただけることに感謝しつつ、そんなことを考えます。

・クレイアート2

『所属団体名=「ただのひと」』

 障害・福祉等のセミナーや勉強会に行くと、いつも受付で困ることがあります。必ず「所属団体名」を聞かれるのです。テーブルの上に紙が置いてあって、表の一番上にはこう書いてあります。「お名前」「所属団体名」

 最近は個人情報が話題になった関係か、「住所」「電話番号」の欄は減ってきました。でも、「所属団体名」は相変わらず聞かれます。私が「特にないのですが…」というと、「えっ?」といつも驚かれます。そういう人がいないのでしょう。
 ほとんどの参加者は、組織に所属して、その組織を通じてそのイベントの案内を受け、組織を通じて申し込むのだと思います。私はしかたがないので、「個人」と記入したり、空欄にして名前だけ書くことになります。本当は「ただのひと」と書きたい…。
 これは障害・福祉だけではないと思います。仕事で環境関連の会合に行った時も同様でした。行政・会社・施設・NPO・○○の会・学校…。なんらかの団体に所属して活動するのが、一般的のようです。

 もちろん、組織に所属することが悪いわけでは、決してありません。組織・団体・仕組は、志を同じくする人が集まり、力を合わせて取り組み、その影響力を活用して、目的を達成していくために、とても有効な手段だと思います。そうして懸命に頑張って力を

注ぎ、成果を上げている方々を否定するつもりは、全然ありません。
 私も、全く組織や団体と関係がないわけではありません。いろんな団体の、たくさんの人にお世話になっています。でも、私は地域に住む一人の人間として、そのイベントに参加しようと出かけます。
 2年間休職してボランティアをしていたときも、そうでした。私は、どこかの組織に所属するのではなく、個人として活動していました。例外は、コーディネーターをさせていただいた赤十字語学奉仕団だけです。自分で考えて、活動場所を探して、相談に行っ

て、お願いして、活動して、また違うところに行って、活動して、あちらでも、こちらでも、受け入れてもらって、お世話になって。個人としていろんなことを経験させていただきました。

 本当は一人ひとりが地域に住む人として、できることをしているのが望ましい姿のような気がします。そのイベントを主催する団体、協力する団体があり、その団体に所属する人も参加している。でも一般の地域の人も、個人としてそれぞれの思いで参加してい

る。そんな形が望ましいと思います。
 地域に住むただの素人として、たくさんの人との繋がりを大切にしながら、いろんなことをさせていただく。ちょっと変わっているんだと思いますが、そんな姿に少しこだわっていきたいと思います。

・クレイアート3

『やはり私は特殊なのか』

 先日、知人に話をする機会がありました。私がこれまでやってきたこと、感じたこと、今やっていること、思い、夢・・・。このブログに書いているようなことです。その知人の感想は、「君は特殊だ」でした。
 君のやってきたことは素晴らしい。自分には絶対にできない。ほとんどの人はできないだろう。君は特殊だ。周りの人は君とは違う。他の人にも君と同じことを求めるのは難しい。それを忘れないほうがいい。
 やはり私は特殊なのでしょうか?

 知人の言うことは正しいのです。他の人に自分と同じことを求めてはいけないのです。人はそれぞれです。周りの人に「自分と同じようにしろ」というのは無理です。そんなことを言っても相手にされません。
 私は、自分と同じようにしてほしいのではありません。自分の思いを伝えて、何かを感じてほしいのです。感じたことを、その人なりに受け止めて、何かを始めてほしい。全員でなくてもいいのです。ほんの一部でもいいので、何かを感じて始めてほしい。それ

だけです。
 それに私のやっていることは、そんなに素晴らしいことではありません。縁あって始めて、楽しくて続けている。それだけです。楽しいと感じる人と、そうでない人がいるでしょう。でも、同じように感じる人も多いはずです。分野はいろいろでしょうけれど、

同じ感覚で楽しく続けている人はたくさんいます。

 知人は知らないのです。この楽しさを。楽しさを感じて続けている人が、たくさんいることも。自分もやってみたら、その楽しさを感じるかもしれないことを。
 知人は知らないのです。世の中には様々な人がいることを。世の中には様々な楽しさがあることを。
 すごいね、えらいね、私にはできない・・・。このような反応はとても多いです。伝わらないこともよくあります。

 今回知人は一歩踏み込んで、「気をつけたほうがいい」と忠告してくれました。私のことを気にしてくれて、敢えて言ってくれたのです。ありがたいことです。
 でも、私は残念な気持ちになりました。違うのに・・・。どうしたらわかってもらえるのだろう・・・。やはり私は特殊なのだろうか・・・。

・クレイアート4

『あふれるボランティア』

 特定のボランティア活動に人気が集まることがあります。そして、応募者が多すぎて断られる場合があります。そのとき応募者はどのように感じるでしょうか。

 例えば、TVで芸能人が体験する様子が紹介され、多数の視聴者が応募する場合などがそうです。ある海外の活動に日本人の応募者が殺到し、しばらく予約で一杯という事態になったこともあるそうです。番組を観た人は、素直にその活動の意義に共感して、自

分自身も役に立ちたいと考えて応募したのでしょう。それは自然なことですし、実際に行動を起こしたことは素晴らしいことだと思います。
 しかし、「現在ボランティアは足りている」と聞いた応募者はどのように感じたでしょう。「自分も役に立ちたかったのに活躍の場がない」と落胆したり、「せっかく助けてやろうと思ったのに失礼だ」と憤りを感じた人もいるでしょう。

 震災や洪水などの災害が発生して、多数の人がボランティアとして現地に集まる場合もあります。災害は被災者の窮状がわかりやすく、報道も大規模に行われます。「助けたい」という気持ちから、現地に駆けつける善意の人が多いのは当然かもしれません。
 しかし「現地が必要としている支援」と「ボランティアがやりたい支援」のミスマッチがしばしば発生します。この場合、現地に行ったボランティアはどのように感じたでしょう。「せっかく来たのにすることがない」と失望したり、「こんなことをするために

来たのではない」と腹を立てる人もいるかもしれません。

 でも、どうでしょう。ボランティアや支援というものは、行う側と受ける側の気持ちが合致した場合に成り立つものです。善意があればいいというものではありません。
 私は「ボランティアは両方OK」だと思っています。受け入れられてこそのボランティアです。自分の期待と違って残念に思うのは自然なことですが、腹を立てるのは筋違いのように思います。
 そして、もう少し視野を広げてみれば、ボランティアや支援を必要しているのは、その活動だけではないはずです。世界には他にも支援が必要な人々はたくさんいます。海外でなくても国内にも。遠い被災地でなくても今住んでいる地域にも。

 TVで紹介された活動は重要ですし、災害支援は被災者にとっては不可欠です。しかし、それだけではありません。他にもボランティアや支援者の活躍の場は山ほどあります。それどころか、実際には支援が足りなくて困っている活動ばかりといっても過言では

ありません。
 「私もやってみたい」「私も何かしなきゃ」と思った人は、何かに気持ちを揺さぶられ「行動しよう」と決意した人です。それはとても貴重なことです。その貴重な気持ちが、「なんだよ」という憤りとともに消えてしまうのは、なんとも残念なことです。
広く活動を探して、実際に参加してみて、何かを感じて、そして自分に合う活動を見つけていってほしいものです。
 「ボランティアの募集を中断している」「ボランティアがあふれている」という話を聞くたびに、志をもって集まった人々の活躍の場が見つかることを心から祈ります。

・クレイアート5

『ボランティアは偽善か』

 「ボランティアは偽善だ」と言うのを、見聞きすることがあります。それに対して「いや偽善ではない」とか、「偽善でも役に立てばよい」といった、反論があるようです。しかし、私には何のことだかわかりませんでした。ボランティアと偽善が、全く結びつ

かなかったのです。
 でも、最近やっとわかってきました。なぜ、ボランティアが偽善と言われるのか。

 つまり、こういうことですね。「ボランティア=他人のため=善」という考え方というか、前提があるのですね。そして、その活動が他人のためではなく、自分のための活動であるように見えた場合に、それはニセモノの善、すなわち偽善であると感じる。「ボ

ランティアは偽善だ」と言う人の多くは、このように考えているのですね。
 しかし、私には「ボランティア=他人のため」という感覚がありません。自分を犠牲にして他人のために尽くすことがボランティアだとは、思っていません。「ボランティア=自分のため」です。

 もちろん、相手が受け入れてくれなければ、ボランティアは成り立ちません。ボランティアは、自分もOK 、相手もOK、つまり「両方OK」で初めて成り立ちます。
 しかし、成り立った場合のボランティアは、自分のためにする活動です。やりたいことをする。相手の了解を得てする。自分のためにさせていただく。
 ですから、私の中では「ボランティア≠他人のため」です。したがって「ボランティア≠善」です。もともとボランティアは善悪とは関係のないものだと、私は思っています。ボランティアは善でもなく、悪でもありません。ましてや、偽善でもありません。
 ですから私は「ボランティアは偽善である」と聞くと、「ボランティアと偽善?なぜ関係のない二つの言葉が議論されているのだろう?」と、不思議な気持ちになったのだと思います。

 確かに「自分がしている事は善行である」と思ったり、人に話したりしている人に、下心や打算が見える場面がときどきあります。それは「ニセモノの善=偽善」であると、言えるかもしれません。また、ボランティアを「自分を犠牲にして他人のために尽くす

善行」として、行っている人もいると思います。そのような人は、自分がしている事を「偽善」と言われると、残念に感じると思います。
 ですから、先ほど書いたことは、私個人の感じ方です。私の場合は、ボランティアをこのように捉えているので、偽善とは結びつかなかった。でも、ボランティアを善行と捉えて、時として偽善と感じる人もいることがわかった。ということだと思います。
 私は「ボランティアは偽善なのだろうか?」と悩んだことはありません。

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※この記事の元記事(ブログ『ボランティア雑記帳』)
 「ありがとう」でいきましょう
 所属団体名=「ただのひと」
 お断りすること
 やはり私は特殊なのか
 あふれるボランティア
 ボランティアは偽善か
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