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第10章 コラム

 最終章は、ボランティアや障害について思いを巡らせて書いたコラムのコーナーです。私の勝手な思いですので、異論があるかもしれません。さまざまな考え方がある分野ですから、むしろ異論があって当然だと思います。「このひとはそう考えてるんだな」と

思って読んでいただけると幸いです。読んで少しでも気づきがあったら、私としてはとても嬉しいです。

【1】ボランティア関連

『「ありがとう」でいきましょう』

 ボランティアには、「ありがとう」と言うことにしてはいかがでしょうか。「ボランティアに感謝してほしい」という意味ではありません。「すみません」より、「ありがとう」のほうがいいかな、という意味です。

 ボランティアをしたときに、ご本人やご家族から「すみません」「ごめんなさい」と言われることがあります。「お忙しいのに・・・」「ご迷惑かけて・・・」「お礼もできなくて・・・」など、いろいろな思いがあってのことと思います。それは自然な気持ち

でしょうし、決していやな気分にはなりません。
 でも、ボランティアは「両方OK」の場合に、成り立つものだと思います。つまり、ボランティア側も望んでしているわけです。ですから、「すみません」「ごめんなさい」と言われると、やはり違和感があります。「好きでやってるのになぁ・・・」と。実際

、ご本人・ご家族がボランティアを受け入れてくれなければ、ボランティアをできないわけですから。
 *ここでは、私のボランティア活動を想定して書いています。「両方OK」でない形のボランティアもあります。

 一方で、「ありがとう」と言うのは、過分なことをしてもらった場合だけではないでしょう。ちょっとしたこと、当然のことをされた場合も、「ありがとう」と言うことは多いと思います。レストランで水を注いでもらったとき、タクシーを降りるとき、友人か

らのメールに返信するとき、家族が醤油をとってくれたとき。
 欧米では、"Thank You."を自然に言うことが多いようです。ここは日本ですし、別に欧米が優れていると言いたいわけではありません。でも、普通のことをして"Thank you."と言われると、温かい気持ちになります。逆に、自分から"Thank you."と言ったときも

、温かい気持ちになります。
 窓口やお店の人が無愛想なのは「ありがとう」と言われないからだ、という話を聞いたことがあります。だから、みんなもっと「ありがとう」と言おう、というわけです。なるほど「ありがとう」とときどき言われていれば、自分も自然と愛想がよくなりそうで

す。

 少し話が逸れてしまいました。「両方OK」であれば、ご本人・ご家族もボランティアも、特別深く感謝する必要はないでしょう。でも、「両方OK」はお互いに相手が「OK」であればこそなので、そういう気持ちで「ありがとう」と言えたら一番かな、と思

います。お互いに「ありがとう。またね。」と言って、お互いに温かい気持ちになりたいものです。ということで、「ありがとう」でいきましょう。

・クレイアート1

『お断りすること』

 お誘いをお断りすることがあります。
 「こういう活動をしているんですけど、来ていただけませんか?」 → 「せっかくですけど、これ以上活動を広げられないので。」
 「来週、一緒に出掛けてくれませんか?」 → 「ごめんなさい、その日は予定があるので。」
 「3人でカラオケに行くんだけど、一緒に行かない?」 → 「ごめん、カラオケちょっと苦手。それより野球行こうよ。」

 できれば私も、いろんな活動に参加してみたいです。新しい出会いや発見もあるでしょうし。せっかく声をかけていただいたのに、お断りするのは申し訳ない。
 できれば私も、久しぶりにあなたと会いたいです。いろいろ聞きたい事や話したいことがあります。私を頼って連絡してくれたのに、失望しただろうなぁ。
 できれば私も、みんなとワイワイやりたいです。自分は歌わなくても、楽しそうなみんなを見てると幸せです。誘ったら来てくれると思ったのに、がっかりしただろうなぁ。

 でも、私の時間は限られている。やりたいことは全部できません。仕事、家族との時間、自分の時間。
 安請け合いは、かえって不誠実。後でドタキャンする方が失礼ですよね。無理しておつきあいするのは、もっと失礼。無理してるのって伝わりますから。きちんとお断りするのも大切、そう思って勇気と誠意をもってお断りします。
 後で落ち込むこともあります。もっとああ言えばよかった、失礼な断り方しちゃったかなあ、行こうと思えば行けたかも。
 仕方ないですね。人と人ですから。率直に自然体でおつきあいするように、心がけるしかありません。声をかけていただけることに感謝しつつ、そんなことを考えます。

・クレイアート2

『所属団体名=「ただのひと」』

 障害・福祉等のセミナーや勉強会に行くと、いつも受付で困ることがあります。必ず「所属団体名」を聞かれるのです。テーブルの上に紙が置いてあって、表の一番上にはこう書いてあります。「お名前」「所属団体名」

 最近は個人情報が話題になった関係か、「住所」「電話番号」の欄は減ってきました。でも、「所属団体名」は相変わらず聞かれます。私が「特にないのですが…」というと、「えっ?」といつも驚かれます。そういう人がいないのでしょう。
 ほとんどの参加者は、組織に所属して、その組織を通じてそのイベントの案内を受け、組織を通じて申し込むのだと思います。私はしかたがないので、「個人」と記入したり、空欄にして名前だけ書くことになります。本当は「ただのひと」と書きたい…。
 これは障害・福祉だけではないと思います。仕事で環境関連の会合に行った時も同様でした。行政・会社・施設・NPO・○○の会・学校…。なんらかの団体に所属して活動するのが、一般的のようです。

 もちろん、組織に所属することが悪いわけでは、決してありません。組織・団体・仕組は、志を同じくする人が集まり、力を合わせて取り組み、その影響力を活用して、目的を達成していくために、とても有効な手段だと思います。そうして懸命に頑張って力を

注ぎ、成果を上げている方々を否定するつもりは、全然ありません。
 私も、全く組織や団体と関係がないわけではありません。いろんな団体の、たくさんの人にお世話になっています。でも、私は地域に住む一人の人間として、そのイベントに参加しようと出かけます。
 2年間休職してボランティアをしていたときも、そうでした。私は、どこかの組織に所属するのではなく、個人として活動していました。例外は、コーディネーターをさせていただいた赤十字語学奉仕団だけです。自分で考えて、活動場所を探して、相談に行っ

て、お願いして、活動して、また違うところに行って、活動して、あちらでも、こちらでも、受け入れてもらって、お世話になって。個人としていろんなことを経験させていただきました。

 本当は一人ひとりが地域に住む人として、できることをしているのが望ましい姿のような気がします。そのイベントを主催する団体、協力する団体があり、その団体に所属する人も参加している。でも一般の地域の人も、個人としてそれぞれの思いで参加してい

る。そんな形が望ましいと思います。
 地域に住むただの素人として、たくさんの人との繋がりを大切にしながら、いろんなことをさせていただく。ちょっと変わっているんだと思いますが、そんな姿に少しこだわっていきたいと思います。

・クレイアート3

『やはり私は特殊なのか』

 先日、知人に話をする機会がありました。私がこれまでやってきたこと、感じたこと、今やっていること、思い、夢・・・。このブログに書いているようなことです。その知人の感想は、「君は特殊だ」でした。
 君のやってきたことは素晴らしい。自分には絶対にできない。ほとんどの人はできないだろう。君は特殊だ。周りの人は君とは違う。他の人にも君と同じことを求めるのは難しい。それを忘れないほうがいい。
 やはり私は特殊なのでしょうか?

 知人の言うことは正しいのです。他の人に自分と同じことを求めてはいけないのです。人はそれぞれです。周りの人に「自分と同じようにしろ」というのは無理です。そんなことを言っても相手にされません。
 私は、自分と同じようにしてほしいのではありません。自分の思いを伝えて、何かを感じてほしいのです。感じたことを、その人なりに受け止めて、何かを始めてほしい。全員でなくてもいいのです。ほんの一部でもいいので、何かを感じて始めてほしい。それ

だけです。
 それに私のやっていることは、そんなに素晴らしいことではありません。縁あって始めて、楽しくて続けている。それだけです。楽しいと感じる人と、そうでない人がいるでしょう。でも、同じように感じる人も多いはずです。分野はいろいろでしょうけれど、

同じ感覚で楽しく続けている人はたくさんいます。

 知人は知らないのです。この楽しさを。楽しさを感じて続けている人が、たくさんいることも。自分もやってみたら、その楽しさを感じるかもしれないことを。
 知人は知らないのです。世の中には様々な人がいることを。世の中には様々な楽しさがあることを。
 すごいね、えらいね、私にはできない・・・。このような反応はとても多いです。伝わらないこともよくあります。

 今回知人は一歩踏み込んで、「気をつけたほうがいい」と忠告してくれました。私のことを気にしてくれて、敢えて言ってくれたのです。ありがたいことです。
 でも、私は残念な気持ちになりました。違うのに・・・。どうしたらわかってもらえるのだろう・・・。やはり私は特殊なのだろうか・・・。

・クレイアート4

『あふれるボランティア』

 特定のボランティア活動に人気が集まることがあります。そして、応募者が多すぎて断られる場合があります。そのとき応募者はどのように感じるでしょうか。

 例えば、TVで芸能人が体験する様子が紹介され、多数の視聴者が応募する場合などがそうです。ある海外の活動に日本人の応募者が殺到し、しばらく予約で一杯という事態になったこともあるそうです。番組を観た人は、素直にその活動の意義に共感して、自

分自身も役に立ちたいと考えて応募したのでしょう。それは自然なことですし、実際に行動を起こしたことは素晴らしいことだと思います。
 しかし、「現在ボランティアは足りている」と聞いた応募者はどのように感じたでしょう。「自分も役に立ちたかったのに活躍の場がない」と落胆したり、「せっかく助けてやろうと思ったのに失礼だ」と憤りを感じた人もいるでしょう。

 震災や洪水などの災害が発生して、多数の人がボランティアとして現地に集まる場合もあります。災害は被災者の窮状がわかりやすく、報道も大規模に行われます。「助けたい」という気持ちから、現地に駆けつける善意の人が多いのは当然かもしれません。
 しかし「現地が必要としている支援」と「ボランティアがやりたい支援」のミスマッチがしばしば発生します。この場合、現地に行ったボランティアはどのように感じたでしょう。「せっかく来たのにすることがない」と失望したり、「こんなことをするために

来たのではない」と腹を立てる人もいるかもしれません。

 でも、どうでしょう。ボランティアや支援というものは、行う側と受ける側の気持ちが合致した場合に成り立つものです。善意があればいいというものではありません。
 私は「ボランティアは両方OK」だと思っています。受け入れられてこそのボランティアです。自分の期待と違って残念に思うのは自然なことですが、腹を立てるのは筋違いのように思います。
 そして、もう少し視野を広げてみれば、ボランティアや支援を必要しているのは、その活動だけではないはずです。世界には他にも支援が必要な人々はたくさんいます。海外でなくても国内にも。遠い被災地でなくても今住んでいる地域にも。

 TVで紹介された活動は重要ですし、災害支援は被災者にとっては不可欠です。しかし、それだけではありません。他にもボランティアや支援者の活躍の場は山ほどあります。それどころか、実際には支援が足りなくて困っている活動ばかりといっても過言では

ありません。
 「私もやってみたい」「私も何かしなきゃ」と思った人は、何かに気持ちを揺さぶられ「行動しよう」と決意した人です。それはとても貴重なことです。その貴重な気持ちが、「なんだよ」という憤りとともに消えてしまうのは、なんとも残念なことです。
広く活動を探して、実際に参加してみて、何かを感じて、そして自分に合う活動を見つけていってほしいものです。
 「ボランティアの募集を中断している」「ボランティアがあふれている」という話を聞くたびに、志をもって集まった人々の活躍の場が見つかることを心から祈ります。

・クレイアート5

『ボランティアは偽善か』

 「ボランティアは偽善だ」と言うのを、見聞きすることがあります。それに対して「いや偽善ではない」とか、「偽善でも役に立てばよい」といった、反論があるようです。しかし、私には何のことだかわかりませんでした。ボランティアと偽善が、全く結びつ

かなかったのです。
 でも、最近やっとわかってきました。なぜ、ボランティアが偽善と言われるのか。

 つまり、こういうことですね。「ボランティア=他人のため=善」という考え方というか、前提があるのですね。そして、その活動が他人のためではなく、自分のための活動であるように見えた場合に、それはニセモノの善、すなわち偽善であると感じる。「ボ

ランティアは偽善だ」と言う人の多くは、このように考えているのですね。
 しかし、私には「ボランティア=他人のため」という感覚がありません。自分を犠牲にして他人のために尽くすことがボランティアだとは、思っていません。「ボランティア=自分のため」です。

 もちろん、相手が受け入れてくれなければ、ボランティアは成り立ちません。ボランティアは、自分もOK 、相手もOK、つまり「両方OK」で初めて成り立ちます。
 しかし、成り立った場合のボランティアは、自分のためにする活動です。やりたいことをする。相手の了解を得てする。自分のためにさせていただく。
 ですから、私の中では「ボランティア≠他人のため」です。したがって「ボランティア≠善」です。もともとボランティアは善悪とは関係のないものだと、私は思っています。ボランティアは善でもなく、悪でもありません。ましてや、偽善でもありません。
 ですから私は「ボランティアは偽善である」と聞くと、「ボランティアと偽善?なぜ関係のない二つの言葉が議論されているのだろう?」と、不思議な気持ちになったのだと思います。

 確かに「自分がしている事は善行である」と思ったり、人に話したりしている人に、下心や打算が見える場面がときどきあります。それは「ニセモノの善=偽善」であると、言えるかもしれません。また、ボランティアを「自分を犠牲にして他人のために尽くす

善行」として、行っている人もいると思います。そのような人は、自分がしている事を「偽善」と言われると、残念に感じると思います。
 ですから、先ほど書いたことは、私個人の感じ方です。私の場合は、ボランティアをこのように捉えているので、偽善とは結びつかなかった。でも、ボランティアを善行と捉えて、時として偽善と感じる人もいることがわかった。ということだと思います。
 私は「ボランティアは偽善なのだろうか?」と悩んだことはありません。

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※この記事の元記事(ブログ『ボランティア雑記帳』)
 「ありがとう」でいきましょう
 所属団体名=「ただのひと」
 お断りすること
 やはり私は特殊なのか
 あふれるボランティア
 ボランティアは偽善か
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【2】障害関連(前編)

『明りのなくなった街』

 野沢和弘さんの著書「条例のある街」の一節、「明かりのなくなった街」の話をします。高梨憲司さんのお話を、野沢さんが紹介したものです。
 千葉県では2006年に、「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」が成立しました。その成立に中心的役割を果たした「千葉県障害者差別をなくすための研究会」。野沢さんはその座長、高梨さんは副座長でした。「明りのなくなった街」は、目の不自由な高梨さんが研究会のタウンミーティングで披露した話だそうです。一部抜粋で引用させていただきます。

*** 以下、「条例のある街」より引用 ***

 明かりのなくなった街

 この町で目の見えない人が多くなったらどうなるか。みなさん考えてみてください。私はこの町の市長選挙に立候補する。そしたら目が見えない人が多いので、私はたぶん当選するでしょう。そのとき、私は選挙公約をこうします。この町の財政も厳しいし、地球の環境にも配慮しなければいけないので、街の灯りをすべて撤去する。そうしたら、目の見える人たちがあわてて飛んでくるでしょう。「なんて公約をするんだ。夜危なくて通りを歩けやしないじゃないか」と。市長になった私はこう言います。「あなたたちの気持ちはわかるけれども、一部の人たちの意見ばかりを聞くわけにはいきません。少しは一般市民のことも考えてください」。そう、視覚障害者である私たち一般市民にとっては、灯りなんてなんの必要もない。地球環境がこんな危機に瀕しているのに、なんで目の見える人はわかってくれないのだろう。

*** 以上、引用終わり ***

 本をお持ちでない方は、是非「条例のある街」をお買い求めください。他にも「輝く拍手の波」など、たくさん気づきがあるお勧めの一冊です。

 車いす用のトイレを増やしてほしいという要望に、「財政が厳しいのにそんな余裕はない」と言っていませんか?それは多数派の論理です。あなたは自分が少数派になったら我慢できますか?「私は少数派なのだから、わがままを言ってはいけないのだ」と納得しますか?
 私はこの一節を読んだとき、目から鱗が落ちました。マイノリティ(少数派)とは何か、多数派の論理とは何か。頭では理解していたことが、「ああ、こういうことだったのか」と腑に落ちた気がしました。その後、野沢さんの講演でこの話を聞いたとき、既に本で読んで知ってる話なのに、鳥肌が立ちました。

 本を読んでから4年が経過し、東日本大震災が起き、全国で節電が行われました。高梨さんが市長だったら、どうなっただろうと思ってしまいました。
 国家存亡の危機に直面した今、限られた電力は優先順位をつけて利用すべきである。昼夜を問わず市内全ての照明と看板を消すこと。街灯や公共機関だけでなく自宅の照明も対象である。TVの使用は禁止し、ラジオのみ許可する。これらによって、当面必要な電力は十分確保されるため、それ以外の社会生活や経済活動は、通常通り行う。・・・こんな感じでしょうか。
 少数派である「見える人」に少々の不便を我慢してもらえば、エレベーターやエスカレーターも止めなくてすみますし、公共交通機関も通常通り運行できます。

 もちろん、この話は極端な例え話であり、反論を始めたらキリがありません。そもそも高梨さんは、逆説的な話をして気づきを与えようとしたのであって、実際に市長になったら、少数派である「見える人」にも配慮した政策を実行するに違いありません。いつもと違った切り口で物事を見てみる。そのためのキッカケとして、考えていただければと思います。

 震災直後、あらゆるところで照明が落とされていました。私個人としては、もっと落としていいと思いますし、これまでが明るすぎたと思いました。でも、弱視の人や視力が衰えた高齢者にとっては、駅の暗い階段歩くのは危険でしょう。エスカレーターも同様で、節電のために少数派である弱者が不便を強いられていたように思います。
 節電する場合の優先順位については、ずっと気になっていました。「節電への協力を求めるTV局こそ輪番停電すべきだ」という意見もあると聞きました。そんなことを考えながら、野沢さんの本を読み返し、「節電の優先順位にみる多数派の論理」について、改めて考えてみました。
 様々な視点と意見が、ありうるテーマだと思います。あなたはどう思いますか?



『大手町は異様な風景』

 東京の大手町の風景は異様です。同じような人が、たくさん歩いています。世の中には、もっと多様な人がたくさんいるのに。
 彼らは毎日ほとんどの時間を、自分と似た人達と過ごしています。通勤電車、会社、昼休み、飲み会、ゴルフ…。世の中には、もっと多様な人がたくさんいるのに。
 そして彼らは、「自分は同じような人と、ほとんどの時間を過ごしている」ということに気がついていません。世の中には、もっと多様な人がたくさんいることを知らない、または忘れています。これが「普通」だと思って、毎日を過ごしています。

 私も、同じような人と過ごす時間は長いです。そんなに多様な人のことを、理解しているわけではありません。日本の常識や小さなことに拘ってしまうことも多いです。
 そんな私ですが、休職の前後にとまどいを感じたことがあります。私は2年間休職して、ボランティアばかりの生活をしました。最初の頃、街に障害のある人や高齢者が多いことに驚きました。街を走る多数の施設送迎車、公園を散歩する高齢者…。平日の住宅街を見慣れていなかったのでしょう。毎日会う人々が、これまでと全く違うのにとまどいました。
 そして、2年が経って復職したときも驚きました。通勤電車、会社近くの街を歩く人々、事務所の従業員たち…。休職中にはほとんど会わなかった人々が溢れている。そして彼らは、とても似通っている。休職に入るときと、逆のとまどいがありました。
 海外で活動したときも、もちろんとまどいはありました。言葉、文化、食べ物、気候…。でも、それは予想していたことです。国内で、しかも自分の住んでいる地域で、あるいは毎日働いていた会社で、こんなにとまどうとは思っていませんでした。

 毎日、共通点の多い人と過ごす時間が長いと、世の中にはもっと多様な人がたくさんいることを忘れてしまいます。世の中には、「障害のある人とない人」だけでなく、様々な相違点をもったひとがたくさんいるわけです。ときどき立ち止まって、「もっといろんなひとがいるんだった」と思い出すことも大切なのでしょうね。自戒の念も含めて、改めてそう思います。

・大手町

『線を引くな』

 ある障害者施設の職員さんから聴いた話を紹介します。もう7年前に聞いたのですが、いまだに心に残っています。今の私の考えに、大きな影響を与えた話です。(細かい部分は、少し違っているかもしれません。ご容赦ください。)

 以下、その職員さんを「Kさん」とさせていただきます。
 Kさんが、まだ研修中のときのことです。知的障害のある人とどう関わったらよいか、まだ迷いがありました。ある日先輩職員さんから、「Kさんは線を引いている」と言われました。「自分と利用者との間に線を引いている」と。「自分と障害のある人を別の人として分けて接している。」という意味です。
 それ以来Kさんは、「障害のある人も自分と同じひとりの人である」と考えて、利用者さんと接するように心がけました。しかしその後も毎日、Kさんは先輩から言われ続けました。「まだ線を引いている」と。
 Kさんは悩みました。頭ではわかっている。でも実際に関わる場面になると、どうすればよいのかわからない。「線をひかない」とは、いったいどういうことなのか・・・。そしてまた先輩から言われます。「まだ線を引いている」
 でもある日、わかったそうです。「そういうことか」そしてそれ以来、全く迷いがなくなったそうです。
 
 私がこの話を聞いたのは、休職してまもなくの頃です。それまでも、障害のある人と関わった経験はありました。でも、年に何回か単発のボランティアをしただけでした。ですから、まだ「障害のある人は助けてあげるべき人」と漠然と考えていたかもしれません。
 そんなときに聞いたこの話は、とてもインパクトがありました。Kさんが話してくれた場所も、鮮明に覚えています。その後もいろいろな場面で、この話を思い出しました。

 Kさんは、「そういうことかとわかった」と話してくれました。しかし「どういうことだとわかったのか」は教えてくれませんでした。でも、なんとなくわかりました。そして、その後だんだんわかっていきました。私なりに。
 私はこう考えるようになりました。世の中にはいろんな人がいる。私たちは互いに共通点と相違点がある。それだけ。
 Kさんは先輩から、福祉施設の職員としての心構えとして、教わったのでしょう。Kさんはそれを受け止めて、自分の考えとして消化しました。そしてそれを、地域の人として障害のある人と関わろうとし始めていた私に、ヒントとして語ってくださったのだと思います。

・定規

『義理では買わない(障害者の作品・商品)』

 障害のある人がつくった作品や商品。いろんなところで販売されています。福祉ショップ、作業所、バザー、文化祭…。私も気に入ったものがあると、ときどき購入します。しかし、義理では買いません。

 本来は障害者雇用が促進されて障害のある人の活躍の場が広がったり、自治体や企業が積極的に作業所等の製品を調達するべきでしょう。そして、作業所等の商品供給側も品質向上や効率化の努力が必要です。
 しかし現状では、作業所等でつくられた商品や作品の販路は限られています。なかなか思うように販売できず、工賃や給与は低く抑えられています。ですから、障害のある人が関わったものを買うことは、障害のある人の活躍の場を確保して広げていくために、役立つでしょう。
 販売する側もなんとか売上を増やしたいと思い、工夫しています。イベントで出店した売店などでは、さかんに「買ってください」と声を掛けます。売る側が一生懸命努力することは当然ですし、こちらも「頑張ってるなあ」と応援したい気持ちになります。

 販売している人が、知っている当事者やご家族・職員さんだったりすると、「買ってってくださいよ」と頼まれることがあります。頼まれると断りにくくて、義理で買う人も多いのではないでしょうか。お店を出している人同士が相手の店を訪問して、互いの商品を購入しあうこともあるでしょう。「さっき買ってくれたから、お返しに購入」という場面も見かけます。
 私は、「何かいいものはあるかな」とお店を見て回り、気に入ったものがあれば買います。しかし、特別ほしいものがなければ、買いません。たとえ、よく知っている当事者の人から強く頼まれても、「う~ん、今は欲しいものないからなあ、ごめんなさい」と言って断ります。いわゆる「義理」で買うことはしません。

 理由は二つあります。
一つ目は、失礼だと思うからです。欲しくない物を買うと、使い道に困ったり食べる気にならなかったりして、最悪の場合は捨てることになるかもしれません。「気に入らないのに仕方なく買う」のは、作った人や関わった人に失礼だと思うのです。あるいは、「かわいそうだから買う」という人がいるとすれば、それもやはり失礼なことだと思います。
 二つ目の理由は、内部への販売は、本来の拡売を阻害する可能性があるからです。イベント等で一日の売上を計算して「○○円売れた」と言っても、実は出店者同士の購入がかなりの割合を占めていたりしないでしょうか。内部への販売は、問題点とすべきことを見えにくくします。関係者に購入を依頼するよりも、品質を向上し、効率化を実現して、販促を強化する方に、力を注ぎたいものです。

 「それができれば世話はない」「外部への販売なんて簡単に増やせない」「助け合いも大切だ」…そんなご意見もあると思います。
 ご本人や関係者は、一生懸命頑張っているのはわかります。しかし、だからこそ失礼なことはしたくないし、本来の売上向上を期待したい。私はそんな気持ちで、いつも商品や作品を見ています。

 もちろん私も、全然買わないわけではありません。実際には、結構欲しいものを見つけて、そこそこ買ってます。不愉快な気持ちになった方がいらしたら、申し訳ありません。そういう感じ方もあるということで、お許しください。

<バザーで買ったカップ(まん中の青)>
義理では買わない

『言葉はなくても…』

 「言葉がなくても、意思や感情はあるんです」「言葉がないからといって、意思や感情がないと思わないでください。」・・・ある研修で聞いた言葉です。

 研修のプログラムの中に、私たちが「おせんべ」と呼んでいるコーナーがあります。受講者がペアになり、障害のある人役と介助する人役になって、おせんべを食べるのを介助してみるというものです。おせんべを食べたいか、どのように食べたいか、どうしてほしいかなど、相手の意思を確認しながら介助します。「介助の基本は、相手の意思を確認すること」「コミュニケーションが最も重要」ということを、体験を通じて理解してもらうことが目的です。
 事前にスタッフで打ち合わせたとき、障害のの内容をどう設定するかで、意見が分かれました。昨年は「手が不自由だが言葉のコミュニケーションは可能」という設定で行いました。初心者には取り組みやすいし、伝えるポイントが絞れるからです。今回も、この設定でやろうという意見が大勢でした。
 しかし、一人だけ強く反対するスタッフがいました。その人は「言葉もないと設定すべきだ」と主張しました。その理由は次の通りです。
・言葉で意思確認する実習だと、言葉でコミュニケーションをとることに注目してしまう。
・すると、言葉がない人は意思や感情がないと思われてしまう。
・言葉はなくても、意思や感情はある。言葉以外でも、それを確認する方法はある。
・それを受講者にわかってほしい。

 スタッフ全員、この話はよく理解できました。私は、このスタッフが昨年も「言葉もない設定」を望んでいたことを思い出しました。そこで私たちは相談の結果、次のように実習を行うことにしました。
・実習の目的である「意思確認とコミュニケーションの重要性を伝える」を果たすため、設定は「手が不自由だが、言葉のコミュニケーションは可能」とする。
・「言葉はなくても意思や感情はある」ことはとても大切なことなので、スタッフが実習の直後に受講者に説明する。

 さて、「おせんべ」の実習終了後、先ほどのスタッフは次のように話しました。

*** 以下、スタッフの話 ***

 今、皆さんは相手の気持ちを確認するのに言葉を使っていましたね。でも、もし相手が言葉のコミュニケーションが苦手な人だったらどうでしょうか。相手の気持ちを知るのは不可能でしょうか。
 私の息子は言葉がありません。でも、話しかけられることはだいたいわかるようです。自分の気持ちも、言葉以外で伝えようとします。しかし、言葉がないということで、コミュニケーションを諦められてしまうことがあります。

 ヘルパーさんと出掛けたとき、「今日は水分を取ってくれませんでした」と言われたことがあります。よく聞いてみると、水分補給は大切だと思ったヘルパーさんは、吸収しやすいスポーツ飲料を飲ませようとしたが飲んでくれなかった、とのことでした。息子はスポーツ飲料は好きではありません。「それで飲まなかったのではないか」と伝えると、ヘルパーさんは「では何が好きなのですか?」と私に尋ねます。「りんごジュースは好きですね」と答えると、ヘルパーさんは次回それを与えますが、今度も飲みません。
その日は違うものを飲みたかったのかもしれません。誰でも飲みたいものは、日によって違いますよね。

 どうして親に好きなものを聞いて、本人に直接聞いてくれないのでしょうか。例えば、コンビニに行って本人の前に飲み物をたくさん置いてみればいいのです。飲みたいものを触るなど、何らかの方法で意思を示すかもしれません。
 食べ物も、好物を親に聞いて勝手に注文しても食べません。和食・中華・洋食、お店を何軒か回って反応を見ればいいのです。入りたいお店の前で、笑顔になったり大きく身体を動かしたりすると思います。店が決まったら、サンプルやメニューを見せてなにが食べたいか訪ねて本人の様子をよく見ます。息子は沖縄料理が好きなのですが、「ゴーヤなんて苦いものは嫌いに違いない」なんて勝手に決めつけないでください。

 言葉がなくても、意思や感情はあるんです。言葉がないからといって、意思や感情がないと思わないでください。言葉がないということで、コミュニケーションを諦めないでください。いろいろ工夫して、本人の気持ちに少しでも近いサポートをするように心がけてください。

*** 以上、スタッフの話 終わり ***

 受講者の皆さんは、じっと耳を傾けていました。感想やアンケートには、次のような言葉がありました。「言葉が不自由であっても本人の意思はある。コミュニケーションを図り、相手の意思を尊重することが必要だとわかった。」
 スタッフの思いは、伝わったようです。

<おせんべとお茶>
言葉はなくても

『ニュートラルな視線で』

 「ニュートラルな視線」を大切にしたいと思っています。私は「ただの人」ですので。福祉関係者ではありません。家族に障害のある人がいるわけではありません。

 障害のある人についての理解を広げたいと思っています。でも、障害のある人の立場で主張するのではなく、ニュートラルな立場で思いを伝えていきたい。
 専門家でも、活動家でもない。ごく普通の地域の一般人。直接の利害のないニュートラルな立場と視線。

 障害のある人の権利擁護や本人・家族の活動を否定するつもりは全くありません。障害のある人に対する社会の理解は浅く、制度も不十分です。権利侵害は多数発生し、差別もなくなっていません。現実に不当な扱いを受けている人々やその支援者が、主張や運動を通じて状況の改善を勝ち取っていくことは当然であり、とても重要なことだと思います。
 それと同時に、社会の理解を得るには「共感」も重要です。当事者や支援者が熱く自ら主張していくと同時に、客観的な立場から冷静に温かく働きかけることで「共感」を得ていく。そんなことも、社会を変えていくという意味では、効果的なのではないでしょうか。

 一般の人の中には、「障害のある人の視点からの主張」に対して拒否反応を示す人もいるでしょう。自分が責められているように感じて自己防衛に入る人や、逆に反撃に出る人もいるかもしれません。「障害のある人 と 一般の人」の構図での主張は、マイナスに作用する場合もありえます。
 「障害のある人」から「一般の人」に向けて視線を送る、あるいはその逆方向に視線を送るのではなく、社会全体を俯瞰して「皆それぞれ」「ひとりひとり」と認識する。そんなニュートラルな視線を、大切にしていきたいと考えています。

 世の中にはいろんな人がいる。誰かが普通で、誰かが特別なのではない。お互いに共通点と相違点がある。それだけ。
 言葉・文化・民族・宗教・食習慣・年齢・性別・家族構成・出身地・職業・体型・得意なこと・苦手なこと・好きなこと・嫌いなこと・趣味・・・。ここは違うけど、ここは同じ。違ったり同じだったり。
 でも、いきなりそれを伝えようとしても、わかりにくいかもしれません。ですから、「障害のある人」という角度で一度考えてみて、その上で全体を俯瞰してみる。そして、最終的には「皆それぞれ」ということを理解してもらい、その中で「障害のある人に必要な支援を自然にする」。そんな人を増やす活動をしていきたいと思っています。

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※この記事の元記事(ブログ『ボランティア雑記帳』)
 明りのなくなった街
 大手町は異様な風景
 線を引くな
 義理では買わない(障害者の作品・商品)
 言葉はなくても…
 フラットな視線で
【3】障害関連(後編)

『そんなはずはない』

 クイズをひとつご紹介します。私が参加した人権研修で出されたものです。摂津市人権協会ホームページに掲載されていましたので、引用させていただきます。
 ※出典はこちらです → 摂津市人権協会ホームページ(「What's News」の「人権クイズ」にあります)

【問題】
 短い物語を6つに切ってバラバラにしたカードがあります。 元通りの意味が通じる文章に並べなおしてみましょう。
A .車いすの青年がいました。
B .道をたずねると、親切に教えてくれました。
C .どうやら旅行者のようですが、道に迷ったのか地図を広げ、辺りを見回しました。
D .近くの病院から家に帰る途中のようです。
E .大きなカバンを持ったアベックが歩いていました。
F .青年は、二人にとても感謝しました。

・頭の体操

【解答】A→C→E→D→B→F
A  車いすの青年がいました。
C  どうやら旅行者のようですが、道に迷ったのか地図を広げ、あたりを見回しました。
E  大きなカバンを持ったアベックが歩いていました。
D  近くの病院から家に帰る途中のようです。
B  道をたずねると、親切に教えてくれました。
F  青年は、二人にとても感謝しました。

【解説】
 「旅行しているのは車いすの青年だ」と気づいていただけましたか?私たちが無意識のうちに「旅行するのは健常者だ」という固定観念を持っていると、なかなかそれに気づくことができません。実はこの固定観念が、私たちの社会に大きな人権問題を引き起こしているのです。 もう一度私たちの心の中にある何気ない固定観念を、人権という観点から問い直して見ませんか?

 私はこのクイズを出されたときは、まだ障害やボランティアには関わっていませんでした。私は「人権の研修で出されたクイズ」であることから、「一般的な考えから離れないと正解できないだろう」と頭を捻りました。なんとか正解にたどり着いたものの、結構苦労しました。そして、「気づきのある良いクイズだな」と思いました。
 皆さんはいかがでしたか?すぐわかった人もいるでしょうし、難しいと思った人もいるでしょう。「旅行するのは健常者だ」と思い込んでいると、「車椅子で旅行」という発想は「そんなはずはない」と無意識に消されてしまいます。

 私はこのクイズに苦労しました。そして「常識や固定観念とはこういうことなのか」と気づきました。でも、いまだに「常識や固定観念」に囚われています。どうしても経験と環境によって、自分の観念をもってしまいます。人とはそういうものなのです。
 大切なのは、それを知っていることだと思います。自分もそういう傾向や可能性があることを知っておく。「あ、しまった。」と気づけること。そして自分の「しまった」を、率直に認められること。そんな気がします。私も気をつけたいと思います。

・トランク

『忘れ物は誰の責任?』

 数年前ですが、車椅子利用者の介助研修のときのことです。実習でディズニーランドの隣の「イクスピアリ」に行きました。グループに分かれて行動し、交代で車椅子介助をするものです。
 私は研修のスタッフとして、全体の動きを見ていました。駅に着いてグループ行動となり、私はあるグループに同行しました。男性の当事者が車椅子に乗り、研修生数人と私のグループです。
 しばらく歩き回った後、トイレに行くことになりました。男性は私だけだったので、トイレ介助は私がすることになりました。無事済ませて、集合場所の駅改札口へ行きました。
 帰りの切符を買う段になって、当事者の男性が気づきました。「バッグがない…」「きっとトイレだ」ということになり、私と2人で引き返しました。幸いバッグは見つかり、事なきを得ました。

 さて、バッグがないことに気づいたとき、その当事者の男性は、「すみません、私の責任です。」と、さかんにと繰り返していました。一方で私も、「いえいえ、バッグを棚に置いたのは私ですから。」と、謝りました。
 この研修は、当事者が講師となって行なうことを特徴としていました。この男性も、いわゆる練習台ではなく講師として参加していました。実習の移動中も、研修生に当事者の視点から、積極的に情報提供をしていました。日常生活の様子、サポートがほしいこと、楽しみなこと…。ですから、強い責任感をもって参加していたのだと思います。「私の責任です」という言葉は、そんな気持ちからだったのかもしれません。
 一方で私は、介助者としての責任を感じていました。トイレの中で、バッグを棚に置いたのは私です。棚から元に戻すのも、私の役目です。私がすべきことをしなかったのですから、私の責任だと思いました。
 このことは帰りの電車の中で、私の頭から離れませんでした。バッグを忘れたのは誰の責任だったのか?

 後で考えたのは、次のようなことです。
 私は、「バッグをここに置きますね」と本人に知らせた。彼は、「はい、わかりました」とそれを認識していた。私も彼も、バッグを忘れないように気をつけるべきだった。忘れた責任は、私と彼の両方にある。
 私の知らせ方は不十分で、彼の認識も弱かったような気がします。だから、やっばり私の方が悪いような感じがします。
 いずれにしても、彼の「私の責任です」は新鮮に感じました。誤解を恐れずに言えば、当事者は時に介助者に頼りすぎることもあります。逆に介助者がやりすぎることも。
 そんななかで彼の姿勢は、とても納得感があると思いました。彼は、「持ち物の管理をまず自分のこととした上で、介助者のサポートを受ける」というしっかりとした考えをもっていたのではないでしょうか。ですから彼の言葉は、前述の「講師としての責任感」からではなく、「自分と介助者の関係に対する彼の考え」から発せられたものだったのだと思います。

 この件について、彼とじっくり話したわけではありません。ですから、この記事は私の推測と感想です。ただ、「本人と介助者の関係」「障害者のサポート」「障害とは」、といったことを考えるキッカケをいただけました。私にとって、とてもよい経験だったと思います。
 それ以来、同じような場面で私は次のように言います。「あ、ここに置いときますね。」「忘れそうだなあ。」「忘れないように言ってくださいね。」

・トイレ

『「きらっといきる」は改革すべきか?』

 NHKの「きらっといきる」という番組がありました。障害のある人の前向きな生き方を、ドキュメントで紹介する番組です。2008年に「きらっと改革委員会」というシリーズが放映されました。そのことについて、若干触れさせていただきます。

 話の概要は次のとおりです。
①視聴者から手紙が届いた。「きらっといきる」は理想にすぎない。頑張っている障害者ばかり描くのはおかしい。
②このことを検討するシリーズ「~~改革委員会」を企画した。制作者、ゲストの当事者、視聴者で意見交換する番組。8月(発足編)、10月(反響編)、12月(反響編2)の3回放映。
③改革が必要とする考えのポイントは・・・、障害者は明るく頑張らないといけないと思われてしまう。 障害者福祉は現状で問題ないと誤解されてしまう。もっとありのままの姿や社会の問題点も描くべきだ。
④このままでよいとする考えのポイントは・・・、障害者の暗いイメージを変えるべきだ。明るく前向きな生き方から勇気をもらっている。番組を否定されると出演者も否定された感じる。

 私も、マスメディアで描かれる障害者のイメージは偏っていると感じていました。「障害を乗り越える障害者」「前向きに頑張る障害者」「勇気や元気を与えてくれる障害者」「愛される障害者」。
 番組に出演された皆さんは素晴らしい人達だと思います。しかし一方で、ステレオタイプに描かれることの弊害もあるようです。

 今回の番組を観た人それぞれに、様々な感じ方があると思います。立場によって、いろいろな見方があるのは当然のことです。私は私なりの感想をもちました。それを少し紹介させてください。
 まず、TV番組とは制作者側が描きたいようにつくられるものです。それは出演者が健常者でも障害者でも、同じことだと思います。健常者のドキュメンタリーでも、本人の意図に反して、現実以上に美しく描かれることはよくあります。その点は障害者特有のことではなく、TV番組共通の現象でしょう。この番組は、前向きに生きる姿を描いて勇気を与えるものです。その描き方自体は、基本的に問題ではないように感じます。
 問題なのは、障害者を取り上げるTV番組が少ないことです。本来は、障害者を取り巻くポジティブな面もネガティブな面も、様々な角度からもっと伝えられるべきではないでしょうか。頑張っている人、ごく普通に暮らす人、苦労している人。「きらっと」のような描き方の番組もあれば、社会の問題点を指摘し続ける番組も、新しい視点から提案していくような番組も、いろんな番組がたくさんあるべきです。
 全ての視聴者が満足する番組はありません。感じ方はそれぞれですから。TV局は様々な番組を提供し、視聴者は自分に合う番組を選択して観れるようになるのがベストだと思います。NHKは、「きらっと」を改革するのではなく、NHK全体の制作方針を改革すべきではないでしょうか。

 そして、障害者のことを描く番組を増やすだけでなく、一般の番組に当たり前のように障害者が出演するようになってほしいと思います。障害者のことを知ってもらう番組も必要ですが、障害者もひとりの人としてなんらかわらないことも、伝えるべきだと思います。障害者のイメージを「暗い→明るい」と変えるだけでなく、「違う→同じ」に変えることも大切のように感じます。
 今回の番組を観ていて、「障害者と健常者」を分けて議論する論調が気になりました。必要なのは「障害者の番組はどうあるべきか」と同時に、ちょっと大袈裟に言えば「TV放送において障害者のインクルージョンはどうしていくべきか」を考えていくことではないでしょうか。「もちろん違いもあるけれども、基本的には同じである」という認識に基づいて、番組を制作してほしいものです。
 とはいえ、このような議論が公開番組でなされ、たくさんの人がそれぞれに考えることは素晴らしいことだと思います。番組のチャレンジには敬意を表したいと思います。このような機会を通じて、番組だけでなくTV局や社会全体の意識が少しずつ変わっていくことを期待します。

・テレビ

『明日は我が身?』

 「明日は我が身と思って、ボランティアしています。」「明日は我が身と思って、ご支援をお願いします。」このような言葉を時々耳にします。聞くたびに、何か違うような気がしていました。

 ボランティアをしている人が、次のように言うことがあります。「私もいつ障害をもつことになるかもしれませんから」。このボランティアは、将来を見通すことができる人です。そして他人の立場に立つとができる人です。今は関係ないが、将来は自分もそうなるかもしれない。事故や加齢などにより、障害をもつことになる可能性がある。そのことを考えれば、今ボランティアをしていることは当然だ。このように考えられるのは、素晴らしいことだと思います。
 福祉講座の講師が、次のように言うことがあります。「皆さんも歳をとれば障害をもつことになるのですから。」この講師は、思いを伝えることができる人です。「障害を自分のこととして考えてほしい」ことを伝えるために、心に響く言葉を選んだのだと思います。障害は他人の問題ではなく、自分も障害をもつ可能性がある。そのことを考えれば、私もできることをしなければ。このように受講生に考えてもらうことは、とても大切です。

 しかし、何か違うような気がしていました。「自分も障害をもつかもしれないからサポートする」。では、「自分が障害をもつ可能性がないならサポートしなくてよい」のでしょうか?
 難病患者の支援を訴えるチラシに、次のように書いてあることがあります。「○○万人もの患者が苦しんでいます」「○○人にひとりの確率で発生します」「決して珍しい病気ではないのです」。このチラシは、読んだ人に重要な情報を伝えています。支援が必要であることを知らせることは大切です。身近に感じてもらうことで支援に繋がることは多いでしょう。
 しかし、何か違うような気がしていました。「身近な人が罹患するかもしれないからサポートする」。では、「発生率が極めて低い病気の患者さんはサポートしなくてよい」のでしょうか?

 誤解しないでいただきたいと思います。「明日は我が身」と思って、意欲的に活動に取り組んでいるボランティアを、間違っているとは思いません。「明日は我が身」ですよと言って、受講生に自分のこととして考えてもらおうとしている講師を、間違っているとは思いません。「明日は我が身」であることを知らせながら、支援を呼びかけているチラシを、間違っているとは思いません。それぞれ素晴らしいことですし、必要なことだと思います。
 でも、やはり何か違うような気がするのです。解決のポイントは、別のところにあるのではないか。問題の本質に思いを至らせると、違う発想が必要なのではないか。そんな気がしてなりません。
 「理屈で矛盾があって納得がいかない」というのではありません。「考え方の視点」「物事の切り口」「精神的な立場」?そんな類のことです。

 つまり、こういうことです。
 「自分もなるかもしれないから」ではなく「ただ、そこにその人がいるから」
 「たくさんいるか、めったにいないか」ではなく「ただ、そこにその人がいるから」
 「その人がとても大変か少し大変か」ではなく「ただ、その人がそのサポートを必要としているから」
 「自分がそうだから」ではなく、「その人がそうだから」
 「ただ、そこにその人がいて、そのサポートを必要としているから」だから、サポートする、サポートが必要、サポートしましょう。そういう「考え方の視点」「物事の切り口」「精神的な立場」。こちらの方が、私にはスッと落ちてきます。

 ここに書いたことは、「私にはスッと落ちる」考え方です。皆さんは違うかもしれません。感じ方、考え方はそれぞれですので。気分を害した方がいらしたらお許しください。

・ガラス食器

『エレベーターのボタンを押すように』

 障害のある人をサポートするには、「自然に」サポートすることが大切です。言うのは簡単ですが、どうしたら「自然に」できるのでしょうか。先日、このことをイメージするための、よい言葉を知りました。

 障害のある人とあまりふれあったことがない人や、ボランティア初心者の人は、初めはどうしても構えてしまいます。「役に立ちたい」「何かしなきゃ」と思うことは悪くありません。でも一歩間違うと、サポートされる側からすると「おせっかい」や「迷惑」になってしまいます。力を抜いて「自然に」サポートすることが大切です。
 では、どうしたら「自然に」サポートできるのでしょうか。それは、「必要なお手伝いのうち、自分にできることをする」ということです。このことに、一般の人と障害のある人で違いはありません。「必要なお手伝い」の中身が少し違うだけです。

 エレベーターに乗った時を想像してみてください。あなたはエレベーターに乗り込んで、行き先階ボタンを押したところです。そこへ後から、エレベーターに乗ろうとする人がこちらに向かって歩いてきます。あなたはどうしますか?「開」のボタンを押して、その人が乗るのを待ちますよね。
 これだと思うのです。あなたは「自然に」ボタンを押したはずです。そこには「役に立ちたい」「何かしなきゃ」という気負いはありません。「ふと気づいたことをした。それだけ。」なのだと思います。そして、サポートされた側も「ありがとう」の一言でいい。そんなことなのだと思います。

 もちろん、もっと負荷の高いサポートが必要な場面もあります。支援者としてのサポートは、また違う側面があると思います。しかし、街の人が障害のある人を「地域の隣人」としてサポートするには、この「自然なサポート」がキーになります。そのために、街の人に「自然にサポートすること」をイメージしてもらうことは、大変重要です。
 この言葉は、昨年秋にお会いした人から聞いたものです。わかりやすくてイメージしやすい言葉だなぁ、と思って紹介させていただきました。

 障害のある人を街で見かけたら、思い出してください。「エレベーターのボタンを押すように」

・エレベーター

『障害は異文化?』

 「障害は異文化だ」と考えていた時期があります。今では、大きな見当違いだったと思っています。でも、ある意味では正しかったようにも思えます。

 障害のある人と関わるボランティアを、始めた頃のことです。ボランティアの活動をするたびに、なんとも言えない満足感かありました。この満足感の理由がわからなくて、困りました。私はなぜ楽しいのか? 私はなぜ満足しているのか?
 世のため、人のためになることをしているから?正しいことをしているから?弱い立場の人を助けているから?・・・どれも違います。いろいろ考えても、納得できる理由がありません。
 そこでこう考えました。「障害は異文化」なのだと。

 障害は、自分がこれまで触れてきたものとは違った世界である。一方で自分には、異文化を楽しむ傾向がある。海外で異なる文化や生活に触れると、とても興味深く感じる。だから障害のある人との関わりを楽しいと感じるのだ。
 今考えれば、「障害を自分とは違う世界のこと」と決めつけたうえでの考えです。その意味では大きな見当違いだったと思います。今は、「ひとにはそれぞれ共通点と相違点があり、障害もそのひとつにすぎない」と考えています。違いもあるけど、基本的には同じひとであると。しかし当時は、「障害のある人は自分とは違う人」「自分はその違いを楽しめる人なのだ」「だから楽しくて満足感があるのだ」と考えていました。
 そうでも考えないと、自分でも説明がつかなかったのです。ボランティアや障害のある人との関わりにおける満足感が。その後、「満足感は説明できなくてもよいのだ」と思うようになりました。
 「なぜボランティアをするのですか?」とよく聞かれます。私は「そこに山があるからです」と答えることがあります。最近は、「私がここにいるからです」と答えるべきだと気づきました。

 さて、冒頭に「ある意味では正しかった」と書きました。当時の考えは、次の点で正しかったと思います。
 現実に、一般の人にとって障害は違う世界であること。その意味では、「障害は異文化」であること。違う世界を受け入れるには、ある素養が必要であること。その意味では、異文化を楽しむ傾向は役に立つこと。共通点と相違点をそのまま理解するには、まず違いを受け入れることが必要ですから。
 海外に行って、日本と環境が違うと感じたときの反応は様々です。「日本と違う」と困ったように言う人、「日本と違う」と嬉しそうに言う人。

 これまで関わりのなかった世界に触れる→「自分と違う」と感じて排除するor遠ざかる→永遠に自分と違う世界とは交わらない
 これまで関わりのなかった世界に触れる→「自分と違う」と感じて関心をもち交わっていく→相違点と同時に共通点を感じていく→ありのままに理解する

 「ふうん、同じなんだ」「へえ、違うんだ」。ありのままに理解したいものです。

異文化

『大好き!「私の妹」』

 「大好き!」は、市民が制作した知的障害者が主人公の漫画です。知的障害のある人の、毎日のさりげない暮らしぶりを描いたものです。
 コラムの最後に、「大好き!」の漫画をひとつご紹介します。

「私の妹」

大好き1小
大好き2小

 いかがですか?読んだ後、温かい気持ちになりませんでしたか?

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※この記事の元記事(ブログ『ボランティア雑記帳』)
 そんなはずはない
 忘れ物は誰の責任?
 「きらっといきる」は改革すべきか?
 明日は我が身?
 エレベーターのボタンを押すように
 障害は異文化?
 大好き!「私の妹」
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